智恵子抄
Book Profile
Work
筆者: 高村光太郎
発行日: 1941年
ページ数: 180
言語: 日本語
Genre
詩
Author
彫刻家として有名な芸術家(高村光雲(みつうん))― 将来を約束されていた
3人兄弟の長男
勉強
彫刻家卒業、西洋画科に移る
NY, LDN, PARISに留学
ロダンの『考える人』という作品に刺激される
- 日本へのロダン紹介に大きな役割を果たし、あとに続く青年作家たちに大きな影響を与える
帰国後、日本の美術界に不満を持ち、父に反抗し、東京美術学校の教職を断わる
年表
1929年
智恵子の実家(酒蔵)破産
智恵子の健康悪化、総合失調症を発病
智恵子が服毒自殺を図る
1938年
智恵子と死別
1941年
「智恵子抄」出版(妻の死から三年後)
戦争
真珠湾攻撃を賞賛 - 戦争高揚のための戦争協力詩を発表
終戦後の10月 - 戦争協力詩を作った反省として7年間独居自炊の生活を送る
詩への智恵子の存在の影響
以前:社会、芸術に対する怒り、迷い、苦悩
以後:穏やかな理想主義とヒューマニズム
精神病になった智恵子はもとの様子を取り戻すことはなかった。しかし、亡くなった当日は健康な顔をしており、光太郎の持っていたレモンを食べると正気に戻った。その様子を書いた詩が『レモン哀歌』。
最後に、智恵子の裸形の像を作った直後、亡くなった。
高村光太郎の言葉
「自身の彫刻の純粋さを守るため、彫刻に文学など他の要素が入り込まないようにするため」
「私はこの世で智恵子にめぐり会った為、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の退廃生活から救い出される事が出来た」
彫刻への純粋さを保つため、また妻への愛を表現するため、詩を書いているのだろうか
Resources
クジラの島の少女
Book Profile
Work
筆者: Witi Ihimaera (ウィティ・イヒマエラ) (原著 “The Whale Rider”;)
発行日: 2003年;角川書店
ページ数: 248
言語: マオリ語
Genre
小説
Time and Place
執筆されたとき:1986年8月14日(最期のページに記載)
Subject Matter (内容)
登場人物:
カフ
- 物語のヒロインの少女
- コロのことを愛している
コロ・アピラナ
- 一族の大首長
- カフの曽祖父
- 首長の後継者を探している
- カフが女の子だと言うことに不満
- カフのことを愛せない(最後のシーンまでは)
- 「パカ」という愛称でカフとナニーに呼ばれている
ナニー・フラワーズ
- コロの妻
- どんな時でもカフを守ろうとする頼もしい曾祖母
- 夫のコロと毎日のように離婚話になるまで口げんかしている
- いつもコロが降参する
ポロウランギ
- カフの父親
- 恋人:マリア
- カフの母親
- カフを出産後に亡くなる
- 偉大な先祖の名「カフ」と名づける
- 自分の死後、夫のポロウランギを立てるため 33
ラウィリ
- ポロウランギの弟
- カフの叔父
- 物語の大半は彼の目を通して語られている
- カフのピカを埋めたときから、彼女を一生守ろうと決意; カフのことを可愛がり、愛している
あらすじ:
ポロウランギとレフアの間にカフという女の子が誕生する。しかし、後継者を探してたコロは不満を募らせ、その後も厄介者扱いし、彼女を愛することはできなかった。それにも限らず、カフは純粋にコロを愛し続け、いつも付きまとっていた。カフのピト(へその緒)を先祖の住むファンガラに埋め、レフアのお母さんがカフを部族の元で育てても、戻ってくるだろうと信じた。コロが後継者候補の男たちに、海からある特別な石を見つけるよう命令したが、誰もできることはなかった。しかし、カフは驚異的な水泳能力で見事見つけ、もって帰ることができた。だが、コロにはカフが見つけたことを知らせなかった。その後しばらくして、ナレーターのラウィリはオーストラリアとパプア・ニューギニアに大学の一貫として数年留学した。帰ってきたときには家族みんなが迎えてくれた。やがて、かつては人間と共存し、コミュニケーションもとれていたクジラが数匹浜辺で数人の男たちに残虐に殺され、その後に群れが浜辺に打ち上げられ、たくさんの人が協力して、海に返さそうとしたが、クジラは浜辺に戻ってき、最終的には全匹死んだ。また、クジラの群れが浜辺の群れが打ち上げられた際に、首長のコロがクジラを海に戻すことができなかったら、もうこの島の伝統を途絶えることになるといい、島の男たち全員で協力した。努力の末、不可能と思われたが、コロの「クジラが死んだら、自分も死ぬ」という言葉を聞いたカフは、コロに死んでもらいたくないために一人で怖いものなしにクジラのとこまで泳ぎ、マオリ語で歌いながらクジラに「カフ」(クジラたちの親しい先祖の名前と同じ)を伝えたところ、クジラの群れが生息する場所まで連れて行かれた。島のみんなは、カフが死んだと思い、コロとナニーは酷く悲しんだ。また、そのときナニーがコロにカフが石を見つけたのだと教えた。そこから、コロはカフを誰よりも愛おしい、大切な存在として扱うようになった。(もちろんナニーのことも愛している)
注目すべき点:
なぜコロにカフが石を見つけたことを伝えなかったのか。
カフはクジラと会話ができる。(歌を通して)
本の影響、本への社会的影響
- ファンガラ独特の文化背景がよく描かれている
- 男性は島を支配する存在であり、女性にはないマナ(力・権利)を持っている
- 人情が熱い
- Disneyの『Moana』はこの作品を基にしていると言われている
- アメリカの学校などではよく読まれている
表現方法、本の特徴
童話のよう
マオリ語(カタカナ表記)が多く含まれている
感想
この作品を基に作られたと言われている『Moana』を観たことがあったので、似ている箇所を見つけられ、理解がしやすく、ストーリーになじめた。
Essay: 議論をして(1)
登場人物の関係性、文化との関わり、また歴史との関係性について考えた。
今回のアクティビティーで気になった、「カフが海から石を見つけたことをなぜコロに秘密にしているのか」という疑問について、「コロは、まだ心の準備ができていなんいだ」ということから、ナニーはコロのことを思って伝えなかったのだと考える。ナニーは最初から、カフは特別な能力を持ち合わせており、今回でカフが長になる存在であることを確信したのだろう。しかし、カフを孫としても認めていないコロに伝えたら、喧嘩の度を超えるとナニーは思ったのだろう。
また今回の議論ではカフの叔父、ラウィリについても理解を深めた。彼は「経験を積むべき」と思い、オーストラリアに留学した。たくさんのいとこも住んでいることから、二国の関係性が強いことが分かる。若者が良く行きそうな、しかしファンガラにはなさそうな娯楽施設がオーストラリアにある。彼も他の若者と同じように、自身の勉学的経験だけではなく、人生を楽しむためにすんなりとオーストラリアに行ったことから、ファンガラを去る際にはそれほどマオリの文化にはさほど関心がなかったと考える。しかし、昔戦争が盛んに行われていたパプア・ニューギニアでは、複数の人種が住むことにより人種差別に発展した歴史を持っていることから、ラウィリはヨーロッパ系白人による人種差別を受けた。そして改めて自分の地元、マオリのよさを理解する。このことから、ラウィリの留学は、他の場所にはないマオリ族の文化の独特性を主張、また歴史的背景を反映するのに効果的だったと感じる。また、マオリではコロによる男性だけがマナ(権力)を持っているという考えに基づいているため、パプアの人種差別と比較された、男女差別が描かれている。
今回の議論では、気になっていた疑問について話し合い、マオリとパプア・ニューギニアの歴史についても理解を深めることができた。
Essay: 議論をして(2)
カフのリーダーとしての素質、自然と人間の共生や伝統と近代性の比較について議論した。
初めに、カフがリーダーとして持っていた特徴、またそれらが男性的かという質問について考えた。「男になる」と言って決断力を持つことは男になることだと考えているナニーに対して、カフは女の子っぽい態度をとりながらも行動力と共に島の人々からの人望を持っており、自然を大切にするマオリ族のリーダーとして重要な伝統的なマオリ語を喋れ、またクジラと会話ができるという潜在的能力を持ち合わせている。もしカフがリーダーになったら、コロのような男女差別が減り、リーダー像が時代と共に変わっていくのだろうと考える。
次に、クジラが語り手になる程、作品では大きな役割を持っているが、現代において何の象徴をしているのかについて議論した。作品では、「クジラが死んだら、自分らも死ぬ」という考えを真剣に信じていることから「人間と自然の共生」が一つの大きなテーマとして取り上げており、陸のリーダーの人間に対照して、海のリーダー・クジラは自然を象徴しているのではないかと感じた。悪天候やクジラの打ち上げは、自然への心を失いかけている人間への挑戦であり、自然を大切にしなくてはいけないという教訓が含まれていると考える。
最後に、カフとコロの男女差別に対する態度の違いと、ラウィリが島にとどまる海外に出るかなど「伝統と近代性」というもう一つの大きなテーマに関して、変わっていく世の中で未だに受け継がれているマオリ族の伝統について議論した。タトゥーを「家紋」という意味の「モコ」と呼び、全身に先祖を表すものとしてしている。また、地面に穴を掘って自然を活用して料理、おしゃれな中心部でさえ裸足で歩いたり、舌と目を使って威嚇したり、自然に共生し、動物のような仕草もとることが分かる。
マオリ族のリーダー像が伝統と近代性が対照されているように、時代と共に変わって行き、自然と人間の共生の在り方にも変化が現れてきていることが『クジラの島の少女』に描写されている。
Essay: この作品において、伝統と現代的なものとはどのように表現されているか
『クジラの島の少女』では「伝統と現代」が一つの主要なテーマとして取り上げられており、描写している登場人物として主にカフ、コロ、ラウィリの三人が挙げられる。
コロはカフの祖父であり、伝統を大切にする人物と作品には描写されている。一つに、コロはマオリ族のリーダーであり、後継者を探すのに必死になっていることから、伝統を受け継いでいくということに関して情熱を持っていることが分かる。しかし、リーダーは男性でなければいけないという考えを一向に曲げようとせず、女の子のカフが後継者になれないがために、どれだけカフがコロを愛していても好きになれない態度から、かなりの男女差別を持っていると感じる。男女差別は現代では注目視され始め、社会問題になるほど解決しようとしているが、昔の時代ではよくある考えであった。これらのことから、コロはいい意味でも悪い意味でも伝統にとどまり、受け継いでいくことを重要視していることがわかる。
次に、現代を象徴している登場人物、カフは作品の最後のほうにリーダーになるだろうという描写がされている女の子である。彼女がリーダーとして備えている素質として、島の人々からの人望、熱中して物事をこなせる行動力、また自然を大切にすることで特徴的なマオリ族のリーダーとして重要なマオリ語を勉強しており、流暢に喋れ、クジラとも会話ができるという潜在能力を持ち合わせている。これらの素質は決して男性に限られた能力ではなく、男女のどちらでもリーダーになるのは可能だということを示している。自然との共生、またマオリ語という大切な伝統を受け継いでいくと同時に、男女差別という問題を変えていくことは可能であり、現代のリーダー像を変えようとしている現代的な視点を踏まえて描写されていると感じた。
最後に、カフの叔父であるラウィリは島を離れ、数年オーストラニアとパプア・ニューギニアに留学するという経験をした。コロが伝統を受け継ぐにふさわしい若者を探すのに苦労をしているように、ラウィリも留学すると決めた時点では、故郷の島への思いが強くなかったと言えるだろう。これは人々の世界中での行き来が広がったことだけではなく、例えば戦時のような愛国心は昔に比べ、現代ではかけているということが示唆されている。しかし、ラウィリは留学先で人種差別にあい、世界を知ることで故郷の伝統の恩恵に気付かされた。
これらのことから、三人の主な登場人物により、現代への社会のあり方の移り変わり、また良き伝統を残しながらも、社会を現代的に改善していくことへの可能性が、作品では描写されていると考える。
異邦人
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Book Profile
Work
筆者: Albert Camus (アルベール・カミュ) (原著 “L'Étranger”;小説家・劇作家・哲学者)
発行日: 1942年
ページ数: 127ページ + 解説ページ
言語: フランス語、日本語訳
Genre
不条理小説
実存主義小説
実存主義とは、人間の実存を哲学の中心におく思想的立場
Time and Place
フランス領アルジェリア・アルジェ - ムルソーの住んでいる場所
マランゴ - ムルソーの母が過ごした養老院の場所
1830年から1962年まで北アフリカに位置するアルジェリア地域はフランスの支配下にあった
Subject Matter (内容)
登場人物:
- 主人公
- 感情をあまり表さない
- 母親の死に対しても、悲しむ様子はない
- マリイへの感情がない、しかし欲望はある
- 結婚したいかと聞かれるも、どちらでもいいと答える
- 大切に思っていない
- レエモンを追っていた、アラブ人グループの一人をピストルで撃ち、殺害した
レエモン・サンテス
- 同じ階に住んでいる隣人
- 女遊び・女への暴力がひどい
- 養ってあげていた女に裏切られた
- その女に暴力をしているところを連絡され、警察が家に来た
- それから、アラブ人のグループに付きまとわれるようになる
マソン
- レエモンの友人
- 浜にヴィラを持っている
- レエモン、ムルソー、マリイの3人で遊びに行った日に、事件が起きる
マダム・ムルソー
トマ・ペレーズ
- 養老院でマダム・ムルソーと仲の良い関係だった
- お通夜・埋葬にも参加した(埋葬には身内しか参加できない決まりがある)
マリイ・カルドナ
- ムルソーが前に働いていた事務所のタイピスト
- お通夜の翌日、ムルソーが海水浴しに行ったときに再開する
- ムルソーの彼女、または男女関係だけ
- ムルソーのことを愛している
- 結婚したいかとムルソーに聞いたところ、どちらでもいい、マリイがそうしたいのならする、と返された
サラマノ老人
- 同じ階に住んでいる隣人
- スパニエル犬を飼っている
- 気に食わないことをするたびに、暴力を振るう
- 犬が行方不明になる
- 頑張って探したが見つからず、孤独になってしまうと悲しみ、嘆く
- 失ってから大切だったんだと気付く
エマニュエル
- 友達?
- 数ヶ月前に、叔父を亡くした
- 映画を理解ができない
- 「スクリーンの上で何が起こっているのか、一向にわからない男だから、説明をしてやらねばならない。」
- 近所に住んでいる
マランゴの養老院の門衛
- 64歳
- パリっ子
- 困窮者として養老院に入ってきた
- ムルソーは、一人の在院者にほかならないなと思う
- 門衛の言い分を聞いて、門衛という立場から、ある程度まで彼は他の人たちの上にちからを及ぼすと考える
- しかし自身は、他の人は違うと理解している
- 「自分より年少の者も相当いるのだが、その在院者たちについて語るとき「あの連中」とか「他の連中」とか、もっとまれには「老人連」とかの言葉を使うのが、ひどく印象に残った。」
セレスト
- レストランのオーナー
あらすじ:
ムルソーが養老院から、母が亡くなったという連絡を受ける。お通夜、埋葬が行われた。お通夜の翌日、海水浴に行き、マリイと再開し、二人は男女関係へと発展する。しかし、マリイへも特別の感情は示さず、結婚についてもなにも感じない。隣人のレエモンから女に裏切られたというトラブルを聞く。そして、警察で証言をしたりと手助けをする。その後、レエモンの友人のマソンの家に遊びに行き、浜辺でレエモンを追っているアラビア人数人を見つける。そこで、ムルソーはアラビア人の一人を銃で4発撃ち、殺害した。ムルソーの判決を決める裁判では、エマニュエル以外の全ての登場人物が証言し、彼を不利にした。結果、公の場での斬首刑が下された。自分の死が近づくにつれ、新たに別の人生を歩んでいくように思われ、ママンが養老院で過ごした日々の感情が最終的に理解できるようになる。
注目すべき点:
母の死を悲しむシーンがない
生前から、母のことを大切に思ってはいなかった
(それに対し)サラマノ老人は犬に日ごろから暴力を振っていたが、愚痴るものの、これからは彼なしの生活だと孤独になってしまうと悲しむ
自分の死が近づくにつれ、考えをめぐらせ、感情を表すことから、人間は究極のシチュエーションに陥ると、本性が現れることが分かる。
表現方法、本の特徴
筆者が哲学者のため、文体が哲学的。そのため、理解するのが難しい
Resources
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E9%82%A6%E4%BA%BA_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)
Essay: 議論をして
宗教に基づいた法律と不条理文学についての知識を深め、『異邦人』での裁判の行われ方、ムルソーの視点から考える不条理な社会についてを学んだ。
1789年のフランス革命での人権宣言で、何人も宗教上の行為に強制参加されないという「信教の自由」を守るための手段として、国家と宗教を分ける「政教分離」が唱えられた。それまでのフランスでは、「国教制度」といい、カトリック教会が特権的地位に携えていたが、今では厳格な政教分離がされている。しかし、『異邦人』での裁判の判事がキリスト教の考えをムルソーに押し付けようとしている場面や、御用司祭というシステムが存在することから、慣習的にキリスト教の観念が残っていることがわかる。
作品を読む際、ムルソーの不合理な行動や言動に共感しがたく、理解が難しかったが、それは彼の考えを受け入れようとせず、自身の常識を押し付けようとする周囲の人間と同じ態度なのではないかという指摘が、このアクティビティーでされた。不条理文学では、不条理な状況に従わないといけないという要素が含まれており、ムルソーにとっては不条理な他人の常識やモラルを押し付けられている場面が作品中に多数ある。そのような不条理な人たちから作り上げられた法律というシステムの下、裁かれ、死刑と判決を下されたムルソーは、「いつのまに自分は殺されることになったのだろうか」、「そんなシステムをなぜ人間は作りたがるのか」と、周囲から導かれた自身の死に対して疑問視する「実存主義」を持ち合わせていることがわかる。作品では、主人公のムルソーの心情の描写が極端に少ないことから、読者に違和感を覚えさせ、読者もムルソーの周囲の人間と同じ視点から客観的にムルソーを見てしまうことがある。また淡々と情景が描写されており、展開が早いことから、ムルソーの無関心さが描かれている。
Essay: 作者の哲学思想が主人公を通して、どのように表現されているか
カミュ作『異邦人』では、主人公のムルソーの言動を通して、作者の哲学思想の一つ「不条理」が表現されている。多くの文学では、主人公に共感できるよう、主人公の考えを中心にストーリーが書かれている。しかし、『異邦人』では物事に対してムルソーの考えがほぼ示されていなく、ある質問について答えを求められても「面倒くさ」く思い、適当に答えるか、答えを拒んだ。恋人のマリイに「結婚したいか」、「愛しているか」と尋ねられたときも、「どっちでもいいことだが、マリイの方でそう望むのなら、結婚してもいい」(45ページ)と答えるなど、冷たい、無神経な態度が伺える。ムルソーの周りの裁判での人たちが考えるように、一般の人は「結婚と言うのは重要な問題だ」と考えるだろう、しかしムルソーは断固として「違う」と言い切っていることから、周囲との考え方に差異があり、他人から理解されにくい印象を与えている。このように、作品全体を通して、物事に関心がなく、読者に違和感を与えるような態度をとるムルソーが描写されている。そのため、『異邦人』では淡々と簡潔に物事が進んでいくという文の印象を与えている。
主人公が、不条理な状況に巻き込まれるストーリーの構成を含む作品を「不条理文学」という。『異邦人』では、主人公のムルソーにとっては周囲の意見は自分のとは異なり、周囲がムルソーを理解できないのと同様に、ムルソーも周囲の常識が理解できずに、裁判と言う周囲の考えからなりなったシステムの下で、自身の罪が裁かれるという状況に陥ってしまう。つまり、ムルソーにとっては一般常識という「不条理」に苦しめられる様子が作品には描かれているのだ。これまでに述べたように、ムルソーと周囲の考え方の違いを強調することにより、作者のカミュは「不条理」な思想を読者に表現しようとしたのだと考える。
朗読者
Book Profile
Work
筆者: Bernhard Schlink (原著 “The Reader”;小説家・法学者)、松永 美穂(翻訳)
発行日: 1995年、(2003年日本語訳、2008年映画化)
ページ数: 247ページ + 解説ページ
言語: ドイツ語、日本語訳
Genre
小説
Time and Place
1960年ごろを舞台としている
自身の少年時代を題材にしている
Subject Matter (内容)
登場人物:
ミヒャエル・ベルク
- 主人公
- 物語の語り手
- 15歳
ハンナ・シュミッツ
- ミヒャエルよりも21歳も年上の女性
- 1922年10月21日、ヘルマンシュタット生まれ
- 第二次世界大戦を体験している(20代ごろ)
あらすじ:
ある日、ミヒャエルは学校からの帰り道で気分が悪くなり、嘔吐し建物の壁に壁にもたれたたずんでいたところ、名前も知らない女性(ハンナ)に乱暴なほどに看病してもらった。その後黄疸にかかっていると診断が下され、数ヶ月間闘病生活を送った。回復した後に、ハンナにお礼をしに彼女の家を訪ねた。その後、ミヒャエルはハンナを魅力的に感じ、次に訪問した際には愛し合った。
ある日、ハンナにせがまれ、ミヒャエルが本を朗読して聞かせることになり、朗読は二人の習慣となった。よく『戦争と平和』や『オデュッセイア』などを朗読した。そして突然ハンナは姿を消してしまう。
本の影響、本への社会的影響
ドイツ・アメリカでベストセラーになり、39ヶ国語に翻訳された
表現方法、本の特徴
翻訳文学ともあり、今まで読んできた作品と文体が違う。例えば、一連とした動作や同じ場面での説明が長々とされており、時間が過ぎるのが遅く感じられる。
Resources
https://ja.wikipedia.org/wiki/朗読者
Essay: 議論をして
私は日本とドイツでの戦争に対しての意識の差異、また筆者自身についての知識を深め、主人公のミヒャエルがなぜ作品中での行動をしたのか、また筆者の得意分野である法律や裁判などが文中でどのように役立っているかを学んだ。
第二次世界大戦で、日本とドイツは同盟を組み、敗戦し、同じ立場であった。戦後20年のドイツでは、ナチのせいにし、責任から逃れようとする行動をとった。しかし、1960年代になり、過去にとった行動を見直し、自分たちの責任を考える「1968年世代」という学生運動が始まった。作品中のミヒャエルは、戦争責任を大学で学んでおり、裁判にも出席したことらか、熱心に自らドイツが戦争でとった行動と向き合おうとしている態度が伺える。
ドイツには、アウシュビッツ強制収容所や、市民自らのアイデアで建てられたホロコースト記念館などには、「加害者」としての資料が残っている。それに比べ日本では広島、長崎の原爆ドームなど「被害者」として戦争を記録するものが殆どで、日本の教育でも加害者よりも被害者としての見解を強調している。
もう1つの論点として、筆者自身の経歴、また他作品について議論した。筆者は、法律学者であり、教授でもある。今回の『朗読者』、また彼による『帰郷者』や『週末』でも、問題や悩みを解決するのに裁判など法律が使われており、考え事、物事の選択をするときにも深い思考回路があることが文中から分かる。また、どの作品も戦後の話について注目していることから、戦後の人間として、どのように戦争を受け止めたらいいのかという考えを持っていることがわかる。色んな発想、深い考えを文中で繰り広げる中で、最終的な答えを出すことはないことから、教授としての立場から、答えを相手にあげるのではなく、相手が答えを出すために質問を投げかけ、視野を広げる手助けをしていることがわかる。
Essay: 登場人物のそれぞれの変化・成長
ベルンハルト・シュリンクの『朗読者』には、主にミヒャエルとハンナの二人の登場人物が存在する。彼らは、作品の第一章では互いを愛し合うのだが、ハンナが行方不明になり、後の第二章ではミヒャエルが大学で学習している戦争責任の裁判にハンナが被告人として出席し、二人はまた再会する。裁判の結果、ハンナは無期懲役の罰を与えられ、長い月日を刑務所で過ごすことになる。ミヒャエルとハンナは、朗読した本のテープと手紙を送りあう関係になるものの、深く関わることはなく、ハンナが最終的に出所できるようになったが、自殺してしまう場面で作品は終わる。
第一章とその後の第二章と第三章の間には、二人の関係、またミヒャエルの心情に大きな変化が表されている。ハンナが病で苦しんでいるミヒャエルを助け、男女の関係が生まれていくシーンから作品は始まる。ミヒャエルが、勉強をしないのならもう会わないというハンナとの約束のために、必死になり勉強し、無事学校を卒業し、高校にも合格したことから、ミヒャエルはハンナのおかげで勉強を頑張れ、学問面で成長できたことが分かる。しかし、ハンナが行方不明になった後、ミヒャエルは長い間ハンナのことを思い続ける。結婚をし、子供ができたが、やはり半なのことが忘れられず、離婚したりと、他の女性をハンナを愛したほどには愛せないと思い、恋愛、また人間関係全般に距離をおくようになり、人と深く関わることを避けるようになる。ハンナがいなくなったことから、ミヒャエルの社会性が落ちてしまったこと、ミヒャエルがハンナを強く愛するほど、彼へのハンナの影響は大きく、ミヒャエルの人生においての成長や変化にはハンナが大きく関わっていることが理解できる。第三章では、朗読した本のテープを送るようになったが、ミヒャエルから感想、手紙への返信を送ることはなく、ハンナと深く関わらないようにしている。ハンナとの関係にも消極的になったことから、もう傷つきたくないという心情があるのではないかと考える。ハンナからの影響を元に、ミヒャエルが大人になるに連れて自分の感情に保守的になったと受け取れる。
一方、主人公のミヒャエルに比べ、ハンナの心情は作品中ではあまり書かれていない。彼女が読み書きできないということが分かったのは第二章の裁判の場面である。このことを隠したいプライドのため、ハンナは償わなくてよい罪まで着せられ、必要以上に長い無期懲役という刑を与えられ、長年刑務所で過ごすことになる。刑務所では、彼女は最初他の服役囚と喋っていたのだが、罪を真剣に償わないといけないという責任意識から、関係を断ち切り、孤独になり、自分を辛い環境へと追い込むようになる。ミヒャエルの変化の原因はハンナなのに対し、ハンナにとっての影響の原因は戦争であると言えると思う。彼女の人生は、戦後も戦争に振り回され、長い間責任をとるはめになってしまう。彼女は、服役中に読み書きができるようになったが、それを実生活の仕事などで活用せずに、自殺してしまう。結局、学問的には成長したものの、長い間服役していた分、仕事の発展に使う機会を失い、不利な立場のままこの世を人生を終えてしまったことが分かる。
このように、過去が人間を人生と言う長いスパンにおいて影響し、自分が他人の過去として影響を及ぼすか、人間関係と戦争がもたらす人間関係への変化が主張されている作品だと感じた。
風の谷のナウシカ
[
Book Profile
Work
筆者: 宮崎駿 (1941年、東京生まれ)
発行日: 昭和57年
ページ数: 200ページ
言語: 日本語
Genre
漫画・SFファンタジー・世界滅亡後のフィクション(post-apocalyptic fiction)
Time and Place
巨大産業社会・大産業文明の時代
「ユーラシア大陸の西のはずれに発生した産業文明は数百年のうちに全世界に広まり巨大産業社会を形成するに至った」
Subject Matter (内容)
登場人物:
- 風の谷の姫様
- 本作のヒロイン
- 16歳の少女
- ジルの末娘
- 強いリーダーシップ
- 風の谷のひとたちを守るため、戦場で戦う
- 風の谷のひとから慕われている
- 優しい心の持ち主
- 王蟲の気持ちを分かろうとする
- 生き物の心を理解し、テレパシーの能力を持つようになる
- 風の谷の人々を愛する・少女たちをかわいがる
- 王蟲の気持ちを分かろうとする
- 「風使い」
- 風の流れをつかみ、巧みに戦闘機を操る
ジル
ユパ
- ジルの旧友
- ナウシカの師
- 45歳
アスベル
- ペジテ市の王子
土鬼(ドルク)
あらすじ:
「ユーラシア大陸の西のはずれに発生した産業文明は、数百年のうちに全世界に広まり、巨大産業社会を形成するに至った。大地の富をうばいとり大気をけがし、生命体をも意のままに造り変える巨大産業文明は、1000年後に絶頂期に達し、やがて急激な衰退をむかえることになった。「火の7日間」と呼ばれる戦争によって都市軍は有毒物質をまき散らして崩壊し、複雑高度化した技術体系は失われ、地表のほとんどは不毛の地と化したのである。その後産業文明は再建されることなく、永いたそがれの時代を人類は生きることになった。」
土鬼とトルメキア軍の戦争で、森に住む王蟲が犠牲になってしまった。怒った王蟲の群れが有毒とされる胞子を撒き散らし、人間の生活に支障を与えていた。なぜなら、人間がマスクなしで有毒を吸ってしまうと、数分で死に至るからだ。ナウシカは、王蟲の心を読むことができ、みんなが王蟲に持っている考えは本当ではないということを訴え続ける。
注目すべき点:
わざわざ難しいシチュエーションを作っている
本の影響、本への社会的影響
現代の環境汚染・社会革命によって起こされた問題に関連性があると思う。
表現方法、本の特徴
- 難しい漢字がよく使われている
- 「蟲」(なぜ「虫」ではないのか)
- より気持ち悪さがでる
- 「蟲」(なぜ「虫」ではないのか)
- 漫画という形式で書かれている
- たまに、なにが起こっているのか把握しづらい場合が多少ある
- 絵が白黒
- ナウシカもクシャナも女子なのに、見た目が男子のような場面があった。性別よりも「戦士」ということが強調されていた。
感想
内容が難しく、何が起こっているのか、これを通して何が言いたいのかを理解するのがとても困難だった。
戦争などしなくても、人の心を読めばいい。ということをナウシカは伝えたいような気がする。
Resources
Essay: 主題について
宮崎駿作、『風の谷のナウシカ』では、互いへの理解、また無関係の人を犠牲にしてしまう自己中心的な社会において主題が定められていると感じた。
この作品中には、様々な誤解が存在している。特に王蟲の役割についてだ。王蟲とは、体についている毒を運び、移動するたびに腐海を拡大していき、世界を侵食している新生命体である。この撒き散らされている毒を、人間が吸うと死に至ってしまうことから、ほとんどの人間は王蟲が自分たちを殺そうとしていると勘違いしている。しかし、ナウシカは気づいていた。ナウシカは、動物、または違う言語を喋る人の言いたいことが理解できる能力を備えており、人間を襲っていた王蟲を止めに入ったときに、王蟲が人間を殺したいがために追いかけていたわけではないということに気付いたのである。王蟲は、仲間意識が非常に強く、彼らが住む森の虫や王蟲の子供を持ち去ると、怒りの目をして追いかけるのだ。ある日、戦争の途中でラズベルと、毒の濃度がすごく高いだろう腐海の底に落ちてしまったときに、植物がすごく綺麗に咲いており、驚くことにマスクなくても普通に毒を吸わずに息が吸えることに気付いた。王蟲は、世界を侵食しているどころか、その反対で腐海の地を浄化していたのだ。しかし、これに気付かないほとんどの人間は、王蟲への悪さばかりをし、怒りを買っていた。
時には、戦争の戦略として、王蟲の子供を飛行機で無残に連れ去り、怒り狂った王蟲の群れを敵の陣地に誘導させたりなど、人間の争いにはまったく関係ないはずの王蟲が犠牲になる姿もあった。また、トルメキアの皇子たちとクシャナの権力争いでは、もともとトルメキアと土鬼間での戦争だったのが、勢力を見せ付けるためだけに、ペジテ、風の谷周辺の辺境を含んだ戦争をした。このように、人間の戦争に無関係の王蟲の子供を戦略として使用したり、関係のない地まで戦争に巻き込んだりと、自己中心的な人間の様が描かれている。
互いのことを理解しせずに、自身の利益しか考えていないという主題は、現代の現実問題にも当てはまると感じた。ネット普及により個人がより非社交的になり他人から独立し、
最近では、友達と一緒にすごしているときも携帯を手放さない若者が増え、非社交的になったりと、互いのことを見つめあい、理解しようとする機会が少なくなったような気がする。他人のことを配慮しないため、自己中心的な行動を取ってしまうという結果を生んでしまうということに、この作品は着目したのだと思う。
Essay: 原作と映画の比較
原作の『風の谷のナウシカ』では、戦争でのそれぞれの国の立場が複雑なのに対して、映画では土鬼が登場せず、トルメキア対ペジテの戦争が主な話題となっている。戦争自体を簡略化することにより、視聴者の混乱をさけ、自然との共存や調和という主題、またそれに対してのそれぞれの国の意見の相違に注目してもらうことが目的だと思われる。
土鬼の存在の欠乏のほかにも、差別を象徴している蟲つかいが登場してこなかったりと、映画ではストーリーが原作に比べ、幅広い場面で大きく簡略化されているのが見てとれる。原作では、土鬼とトルメキアの戦争が主な話題であり、その戦争にペジテや風の谷のような近隣諸国が影響を受けたことになっている。しかし、映画ではトルメキアとペジテとの対戦に風の谷が加わったというストーリーに変わっている。これにより、風の谷が話の中心になるようになっている。また、複雑な戦争を理解しようと頭をひねるよりも、なぜ戦争をしなくてはならないのか、という疑問を持たせることが目的とされていると感じた。それぞれの国が、自然と共存することに対しての意見をはっきりと示しており、相違が見られることがよく分かる。
トルメキアは、人間の住処をどんどん侵食していく腐海を滅ぼすべきだと考えており、王蟲を巨神兵で襲い、殺そうとしている。ペジテもトルメキアの意見と似ており、これ以上腐海を広げるべきではないと考えている。しかし、ペジテ出身のアスベルが、風の谷出身のナウシカから、「それではトルメキアと同じ意見なのね」という言葉には激しく反対した。一方、腐海が実は地表を浄化していることを確信しているナウシカが率いる風の谷は、二方の意見とは反対で、王蟲と共に腐海でも生きていくことを目指している。このように、「自然との調和」に対しての意見が全員ずれているのである。
現実問題でも、違う国によって固定観念が異なることから、戦争やテロにつながる事件が増えている。この映画が放送された1984年は冷戦の直後であり、その時代にも問題視されていた国家間の相違の問題が今も貫通することがわかる。