風の谷のナウシカ
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Book Profile
Work
筆者: 宮崎駿 (1941年、東京生まれ)
発行日: 昭和57年
ページ数: 200ページ
言語: 日本語
Genre
漫画・SFファンタジー・世界滅亡後のフィクション(post-apocalyptic fiction)
Time and Place
巨大産業社会・大産業文明の時代
「ユーラシア大陸の西のはずれに発生した産業文明は数百年のうちに全世界に広まり巨大産業社会を形成するに至った」
Subject Matter (内容)
登場人物:
- 風の谷の姫様
- 本作のヒロイン
- 16歳の少女
- ジルの末娘
- 強いリーダーシップ
- 風の谷のひとたちを守るため、戦場で戦う
- 風の谷のひとから慕われている
- 優しい心の持ち主
- 王蟲の気持ちを分かろうとする
- 生き物の心を理解し、テレパシーの能力を持つようになる
- 風の谷の人々を愛する・少女たちをかわいがる
- 王蟲の気持ちを分かろうとする
- 「風使い」
- 風の流れをつかみ、巧みに戦闘機を操る
ジル
ユパ
- ジルの旧友
- ナウシカの師
- 45歳
アスベル
- ペジテ市の王子
土鬼(ドルク)
あらすじ:
「ユーラシア大陸の西のはずれに発生した産業文明は、数百年のうちに全世界に広まり、巨大産業社会を形成するに至った。大地の富をうばいとり大気をけがし、生命体をも意のままに造り変える巨大産業文明は、1000年後に絶頂期に達し、やがて急激な衰退をむかえることになった。「火の7日間」と呼ばれる戦争によって都市軍は有毒物質をまき散らして崩壊し、複雑高度化した技術体系は失われ、地表のほとんどは不毛の地と化したのである。その後産業文明は再建されることなく、永いたそがれの時代を人類は生きることになった。」
土鬼とトルメキア軍の戦争で、森に住む王蟲が犠牲になってしまった。怒った王蟲の群れが有毒とされる胞子を撒き散らし、人間の生活に支障を与えていた。なぜなら、人間がマスクなしで有毒を吸ってしまうと、数分で死に至るからだ。ナウシカは、王蟲の心を読むことができ、みんなが王蟲に持っている考えは本当ではないということを訴え続ける。
注目すべき点:
わざわざ難しいシチュエーションを作っている
本の影響、本への社会的影響
現代の環境汚染・社会革命によって起こされた問題に関連性があると思う。
表現方法、本の特徴
- 難しい漢字がよく使われている
- 「蟲」(なぜ「虫」ではないのか)
- より気持ち悪さがでる
- 「蟲」(なぜ「虫」ではないのか)
- 漫画という形式で書かれている
- たまに、なにが起こっているのか把握しづらい場合が多少ある
- 絵が白黒
- ナウシカもクシャナも女子なのに、見た目が男子のような場面があった。性別よりも「戦士」ということが強調されていた。
感想
内容が難しく、何が起こっているのか、これを通して何が言いたいのかを理解するのがとても困難だった。
戦争などしなくても、人の心を読めばいい。ということをナウシカは伝えたいような気がする。
Resources
Essay: 主題について
宮崎駿作、『風の谷のナウシカ』では、互いへの理解、また無関係の人を犠牲にしてしまう自己中心的な社会において主題が定められていると感じた。
この作品中には、様々な誤解が存在している。特に王蟲の役割についてだ。王蟲とは、体についている毒を運び、移動するたびに腐海を拡大していき、世界を侵食している新生命体である。この撒き散らされている毒を、人間が吸うと死に至ってしまうことから、ほとんどの人間は王蟲が自分たちを殺そうとしていると勘違いしている。しかし、ナウシカは気づいていた。ナウシカは、動物、または違う言語を喋る人の言いたいことが理解できる能力を備えており、人間を襲っていた王蟲を止めに入ったときに、王蟲が人間を殺したいがために追いかけていたわけではないということに気付いたのである。王蟲は、仲間意識が非常に強く、彼らが住む森の虫や王蟲の子供を持ち去ると、怒りの目をして追いかけるのだ。ある日、戦争の途中でラズベルと、毒の濃度がすごく高いだろう腐海の底に落ちてしまったときに、植物がすごく綺麗に咲いており、驚くことにマスクなくても普通に毒を吸わずに息が吸えることに気付いた。王蟲は、世界を侵食しているどころか、その反対で腐海の地を浄化していたのだ。しかし、これに気付かないほとんどの人間は、王蟲への悪さばかりをし、怒りを買っていた。
時には、戦争の戦略として、王蟲の子供を飛行機で無残に連れ去り、怒り狂った王蟲の群れを敵の陣地に誘導させたりなど、人間の争いにはまったく関係ないはずの王蟲が犠牲になる姿もあった。また、トルメキアの皇子たちとクシャナの権力争いでは、もともとトルメキアと土鬼間での戦争だったのが、勢力を見せ付けるためだけに、ペジテ、風の谷周辺の辺境を含んだ戦争をした。このように、人間の戦争に無関係の王蟲の子供を戦略として使用したり、関係のない地まで戦争に巻き込んだりと、自己中心的な人間の様が描かれている。
互いのことを理解しせずに、自身の利益しか考えていないという主題は、現代の現実問題にも当てはまると感じた。ネット普及により個人がより非社交的になり他人から独立し、
最近では、友達と一緒にすごしているときも携帯を手放さない若者が増え、非社交的になったりと、互いのことを見つめあい、理解しようとする機会が少なくなったような気がする。他人のことを配慮しないため、自己中心的な行動を取ってしまうという結果を生んでしまうということに、この作品は着目したのだと思う。
Essay: 原作と映画の比較
原作の『風の谷のナウシカ』では、戦争でのそれぞれの国の立場が複雑なのに対して、映画では土鬼が登場せず、トルメキア対ペジテの戦争が主な話題となっている。戦争自体を簡略化することにより、視聴者の混乱をさけ、自然との共存や調和という主題、またそれに対してのそれぞれの国の意見の相違に注目してもらうことが目的だと思われる。
土鬼の存在の欠乏のほかにも、差別を象徴している蟲つかいが登場してこなかったりと、映画ではストーリーが原作に比べ、幅広い場面で大きく簡略化されているのが見てとれる。原作では、土鬼とトルメキアの戦争が主な話題であり、その戦争にペジテや風の谷のような近隣諸国が影響を受けたことになっている。しかし、映画ではトルメキアとペジテとの対戦に風の谷が加わったというストーリーに変わっている。これにより、風の谷が話の中心になるようになっている。また、複雑な戦争を理解しようと頭をひねるよりも、なぜ戦争をしなくてはならないのか、という疑問を持たせることが目的とされていると感じた。それぞれの国が、自然と共存することに対しての意見をはっきりと示しており、相違が見られることがよく分かる。
トルメキアは、人間の住処をどんどん侵食していく腐海を滅ぼすべきだと考えており、王蟲を巨神兵で襲い、殺そうとしている。ペジテもトルメキアの意見と似ており、これ以上腐海を広げるべきではないと考えている。しかし、ペジテ出身のアスベルが、風の谷出身のナウシカから、「それではトルメキアと同じ意見なのね」という言葉には激しく反対した。一方、腐海が実は地表を浄化していることを確信しているナウシカが率いる風の谷は、二方の意見とは反対で、王蟲と共に腐海でも生きていくことを目指している。このように、「自然との調和」に対しての意見が全員ずれているのである。
現実問題でも、違う国によって固定観念が異なることから、戦争やテロにつながる事件が増えている。この映画が放送された1984年は冷戦の直後であり、その時代にも問題視されていた国家間の相違の問題が今も貫通することがわかる。