智恵子抄
Book Profile
Work
筆者: 高村光太郎
発行日: 1941年
ページ数: 180
言語: 日本語
Genre
詩
Author
彫刻家として有名な芸術家(高村光雲(みつうん))― 将来を約束されていた
3人兄弟の長男
勉強
彫刻家卒業、西洋画科に移る
NY, LDN, PARISに留学
ロダンの『考える人』という作品に刺激される
- 日本へのロダン紹介に大きな役割を果たし、あとに続く青年作家たちに大きな影響を与える
帰国後、日本の美術界に不満を持ち、父に反抗し、東京美術学校の教職を断わる
年表
1929年
智恵子の実家(酒蔵)破産
智恵子の健康悪化、総合失調症を発病
智恵子が服毒自殺を図る
1938年
智恵子と死別
1941年
「智恵子抄」出版(妻の死から三年後)
戦争
真珠湾攻撃を賞賛 - 戦争高揚のための戦争協力詩を発表
終戦後の10月 - 戦争協力詩を作った反省として7年間独居自炊の生活を送る
詩への智恵子の存在の影響
以前:社会、芸術に対する怒り、迷い、苦悩
以後:穏やかな理想主義とヒューマニズム
精神病になった智恵子はもとの様子を取り戻すことはなかった。しかし、亡くなった当日は健康な顔をしており、光太郎の持っていたレモンを食べると正気に戻った。その様子を書いた詩が『レモン哀歌』。
最後に、智恵子の裸形の像を作った直後、亡くなった。
高村光太郎の言葉
「自身の彫刻の純粋さを守るため、彫刻に文学など他の要素が入り込まないようにするため」
「私はこの世で智恵子にめぐり会った為、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の退廃生活から救い出される事が出来た」
彫刻への純粋さを保つため、また妻への愛を表現するため、詩を書いているのだろうか