peng'suke

ペンスケ

智恵子抄

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/41YWVFQQ52L._SX327_BO1,204,203,200_.jpg

 

Book Profile

Work

筆者: 高村光太郎

発行日: 1941年

ページ数: 180

言語: 日本語

Genre

Author

彫刻家として有名な芸術家(高村光雲(みつうん))― 将来を約束されていた

3人兄弟の長男

 

勉強

彫刻家卒業、西洋画科に移る

NY, LDN, PARISに留学

ロダンの『考える人』という作品に刺激される 

- 日本へのロダン紹介に大きな役割を果たし、あとに続く青年作家たちに大きな影響を与える

 

帰国後、日本の美術界に不満を持ち、父に反抗し、東京美術学校の教職を断わる

 

年表

1929年

智恵子の実家(酒蔵)破産

智恵子の健康悪化、総合失調症を発病

智恵子が服毒自殺を図る

1938年

智恵子と死別

1941年

智恵子抄」出版(妻の死から三年後)

 

戦争

真珠湾攻撃を賞賛 - 戦争高揚のための戦争協力詩を発表

終戦後の10月 - 戦争協力詩を作った反省として7年間独居自炊の生活を送る

 

詩への智恵子の存在の影響

以前:社会、芸術に対する怒り、迷い、苦悩

以後:穏やかな理想主義とヒューマニズム

 

精神病になった智恵子はもとの様子を取り戻すことはなかった。しかし、亡くなった当日は健康な顔をしており、光太郎の持っていたレモンを食べると正気に戻った。その様子を書いた詩が『レモン哀歌』。

 

最後に、智恵子の裸形の像を作った直後、亡くなった。

 

高村光太郎の言葉

「自身の彫刻の純粋さを守るため、彫刻に文学など他の要素が入り込まないようにするため」
「私はこの世で智恵子にめぐり会った為、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の退廃生活から救い出される事が出来た」

高村光太郎と智恵子

 

彫刻への純粋さを保つため、また妻への愛を表現するため、詩を書いているのだろうか

 

Resources

高村光太郎 - Wikipedia

智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像~|NHK 日曜美術館

高村光太郎 - NPO法人 国際留学生協会/向学新聞

高村光太郎と智恵子