羅生門
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Book Profile
Work
筆者: 芥川龍之介 (1892-1927年、東京生まれ)
発行日: 大正四年十一月(1915年)(『帝国文学』)
ページ数: 11ページ
言語: 日本語
Genre
短編小説
Time and Place
平安時代の京都 – 京都が日本の中心だった時代
- 「暮方の事」
芥川には、「蜜柑」(大正八年)「杜子旬」(大正九年)「神々の微笑」(大正十一年)など日暮れが舞台となる作品が多い。
平安京・大内裏の南正門の朱雀門から羅生門まで、南北に走る平安京の中央大通り。現在、京都の千本通りにあたる。
- 洛中
Subject Matter (内容)
登場人物:
- 下人 - 雇われている人、低い身分
羅生門の下で雨やみを待っていた。寂れた朱雀大路で一人さまよっている。羅生門の楼を上ったところで老婆と会う。
比較的若い男性。「大きなにきび」とある。
「短い髭のの中に、赤く膿を持ったにきびのある頬である。」
刀を持っている
- 老婆
羅生門の楼の上で、自分の鬘を作るため、死人の髪の毛を一本一本抜いていた。最後、来ていた着物を下人に持っていかれる。
「檜皮色(ひわだいろ)の着物を着た、背の低い、痩せた、白髪頭の、猿のような老婆である。」
あらすじ:
仕事を失い途方にくれた下人が羅生門の下・朱雀大路で当てもなく、うろうろ彷徨っていた。羅生門の下には、引き取り手のない死人が棄てられていた。死人、盗人などしかいない、寂れた朱雀大路で今後どのようにして生きていこうか悩んでいた。歩き回っていたところ、羅生門の楼の上へ上ってみた。すると、死人が床にごろごろ無造作に転がっていた。そこに、死人の髪の毛を一本ずつ抜いている老婆を見つけた。下人は、持っていた刀で、何をしていたのか言わないとこれで殺すぞと脅す。すると、老婆は自分の鬘を作るためにしていたと分かる。死人は生きるためにひどい事をしてきた。だから、その死人から髪の毛を抜いたところで、悪い事だとしても、許してくれる、という言い分を老婆から聞いた下人は、老婆の着ていた着物を持ち去り、大路の闇へ消えていった。
注目すべき点:
- 人間の本性
- 人間は生きるためには、たとえそれがひどい罪・裏切りでもしてしまうという、飾り立てられていない、本来の人間らしさが描写されている。
- 老婆の行動に対する、下人の反応
- 憎悪を覚える;なぜ?なぜ怒る必要があるのか
- 「この老婆に対すると云っては、語弊があるかも知れない。」
- 「あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増してきた」
- 正義の心に燃えていた
- 「餓死するか盗人になるかと云う問題を、改めて持ち出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、餓死を選んだことであろう。」
- 「悪を憎む心は、老母の床に挿した松の木片のように、勢よく燃え上り出していた」
- 考え方が自分勝手
- 憎悪を覚える;なぜ?なぜ怒る必要があるのか
- 下人が最後にとった行動
- 老婆から着物を盗み、逃げ去る
- 「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、餓死をする体なのだ」
- 「下人はすばやく、老婆の着物を剥ぎとった。」à老婆、裸
- 老婆を最初に見たときは、憎悪で、絶対に盗人になりたくないと思っていたはずが、最後には自分が盗人になってしまった。
- 老婆から着物を盗み、逃げ去る
表現方法、本の特徴
- 難しい言葉、歴史的背景の説明が必要な語句には注解がある。
- 英語(フランス語)の使用。「この平安朝の下人のsentimentalismに影響した。」
- 注解:感傷癖。
- 現代らしさ・言語的知的さを出したかった。
- 印象付け。ずっと難しい漢字を用いた日本語から英語がくると、インパクトが大きい。
- 比喩
- 猿のような老婆
- 象徴
- カラスà不吉
- にきび
- ある特定のときににきびを触るà自信のないときに触る
感想
- 気持ち悪い
- 『死』に関する描写が多い。
- 「引き取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。」
- (鴉が)「門の上にある死人の肉を、啄(ついば)み来るのである。」
- 「幾つかの屍骸が、無造作に棄ててある」
- 「裸の屍骸と、着物を着た屍骸がある」
- 「屍骸の首に両手をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱をとるように、その長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた。」
- 鶏の脚のような、骨と皮ばかりの腕である
- 『死』に関する描写が多い。
Quotation
「餓死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目にみてくれるであろ」 - 老婆の言い訳
「旧記の記者の語を借りれば」
Essay: なぜ気持ち悪い描写が多いのか
芥川龍之介の有名作、「羅生門」では、作品全体のイメージが「死」であり、その説明が読者に気持ち悪さを与える描写をしている。不快に思わせる表現として、「門の上にある死人の肉を、啄ばみ来るのである。」、「幾つかの屍骸が、無造作に棄ててある」や「裸の屍骸と、着物を着た屍骸がある」などが挙げられる。なぜ芥川龍之介は作品を気持ち悪いと感じさせるような作品に仕上げたのか。それは、気持ち悪いものを読みたいと思う人の心理を理解することが大事だと思う。その心理は、人々がホラー映画を楽しむのと同じ論理なのだと考える。ホラーは刺激的であり、怖くて、不可能と思われる状態からどうやって助かるのか、どうやって化け物と戦うのかなどが興味を引く点である。この作品では、たくさんの人が死んでいってしまう中で、下人がこの先どのようにして生き延びていくのかが読者を引き寄せる要素だと思う。さらに、より身近に、同じような生活の中で起こる出来ことだと感じさせ、ホラーや気持ち悪さの刺激を増すには、現実味が問われる。そこで、芥川龍之介は話の場所設定をあえて、実際に存在する羅生門、現在で言う京都の千本通りを選んだのだと思う。平安時代の期末、かつて栄えていただろう日本の中心の街が廃れているという設定にし、時代背景と照らし合わせていることからも、現実味を出そうとしていることが分かる。
「死」による気持ち悪さを出すことで、読者の興味を引く以外にも、下人への切迫感を出すことが出来ると思う。死人が棄てられていく羅生門の下で雨宿りとしていたとき、まだ下人には盗人になる決心がつかずにいた。しかし、羅生門の楼を上がり、老婆が死人の髪の毛を抜いているのを見て、餓死することを選んだ。しかし、老婆の死人に対する行動の論理を聞いたあと、盗人になる決心がようやくつき、終いには老婆の着物を剥ぎ取って逃げていってしまった。これらの究極の選択は、死と隣り合わせの極致に立たされたときにされたものであり、切迫感が下人の本性を見出すということで大いに活躍したといえると思う。